厚田ゆかりの三人
石狩市厚田区(旧厚田村)は、日本海の石狩湾沿岸に位置し、江戸時代からアツタ場所が開かれるなど、古くから漁業で栄えた地域です。
厚田村栄誉村民である戸田城聖氏と子母澤寛氏は、厚田村で幼少期をともに過ごした間柄で、その友情は生涯にわたり続きました。
三岸好太郎氏は、子母澤寛氏の弟で、旧厚田村を本籍地とし、北海道への郷土愛を強く抱いていました。
戸田城聖の生涯
兄の遺志を継ぎ教育の道へ
創価学会第2代会長の戸田城聖は1900年(明治33年)2月11日、現在の石川県加賀市塩屋町で、父・甚七、母・すえの七男として生まれ、甚一と名付けられた。家業は北前船による仲買商であったが、数え年5歳の時に北海道厚田郡厚田村大字別狩村13番地(現石狩市厚田区)に一家で移り住んだ。
厚田尋常高等小学校では成績優秀で、級長をつとめた。旺盛な向学心は、兄・外吉(ほかきち)の影響が強い。兄は教師を目指すが、志半ばで病死(享年17歳)。その時、戸田は8歳だった。後年、働きながら尋常小学校准教員の資格を得るが、それは兄の遺志を継ぐという思いからだった。
外吉の親友・梅谷松太郎(のちの子母澤寛)とは、戸田も一緒によく遊んだ。また、河合裸石や支部沈黙という気鋭の教師に恵まれ、彼らの蔵書から薦められた本を読破していった。
1914年(大正3年)、厚田尋常高等小学校高等科を卒業。翌年7月、札幌の雑貨問屋・小六商店に入社し、経済の仕組みを実地で学びとっていった。
1918年(大正7年)4月に、小六商店を退社し、同年6月から夕張・真谷地(まやち)尋常小学校の准訓導となる。校長の三ッ谷(みつや)三蔵は厚田出身であった。戸田は、この地で尋常小学校本科正教員、さらに数学(代数・幾何)と理科(物理・化学)の高等小学校本科正教員の資格を取得。一方、当時の文部大臣に教育改革を訴える建白書を提出している。
師・牧口と出会い才能を大きく開花
青雲の志に燃え、上京したのが1920年(大正9年)。知人の紹介で東京市西町尋常小学校(台東区)の校長・牧口常三郎と出会い、臨時代用教員となる。その後、牧口とともに三笠尋常小学校(墨田区)へ転じ、訓導となった。
1922年(大正11年)に旧制高等学校入学資格検定試験(高検)に合格し、中学4年修了資格を得るが、自身の学費を確保するために教員を退職。生命保険会社の外交員となり、大いに業績を挙げた。
牧口の勧めで始めた私塾が、のちに「時習学館」へと発展した。この時習学館に学んだ山下肇(ドイツ文学者、東京大学名誉教授)は、十倍以上の難関校に合格。当時、戸田が主催した模擬試験は、権威があり有名であったことや、戸田の著書『推理式指導算術』(1930年発刊、百万部を超えるロングセラーとなる)が受験生の間では必修の参考書であったことを『時習学館と戸田城聖――私の幼少年時代――』で紹介し、「まさに、戸田先生は『受験の神様』でした」とも述懐している。
戸田は中央大学予科を経て同大学本科経済学部に進学した。
勉学と教育への道――志を果たせなかった兄・外吉の分身として、戸田は苦学の末にそれを実現したのである。
後継の弟子・池田SGI会長が世界192カ国の連帯を築く
1951年(昭和26年)5月3日、戸田は、創価学会第2代会長の就任にあたり、75万世帯の弘教を生涯の願業とすることを宣言。わずか6年半後の1957年(昭和32年)12月、76万5千世帯を達成し、願業を果たす。同年9月8日には「原水爆禁止宣言」を発表し、遺訓とした。
翌1958年(昭和33年)4月2日、58歳で生涯を閉じるが、池田大作創価学会インタナショナル(SGI)会長をはじめとする後継の弟子により、創価の連帯はわが国で800万世帯を超え、世界192カ国・地域へと広がっている。
戸田は後継の弟子・池田SGI会長に万般にわたる学問の個人教授を行った。池田SGI会長は、世界の大学・学術機関から「知性の宝冠」である名誉学術称号を相次いで受けている(2020年11月現在で397を数える)。
戸田とともに池田SGI会長が故郷・厚田を初訪問したのは1954年(昭和29年)8月。その時の印象をSGI会長は「厚田村」と題する詩に綴った。
1977年(昭和52年)10月には、SGI会長が恩師である戸田の名を冠する戸田記念墓地公園を厚田の地に開園。同年12月、池田SGI会長に「厚田村栄誉村民」の称号が贈られた。
年譜
- 1900年(明治33年)2月11日
- 石川県加賀市塩屋町に生まれる。数え年5歳の時、一家で厚田村へ移住
- 1914年(大正3年)3月
- 厚田尋常高等小学校高等科を卒業
- 1918年(大正7年)
- 夕張・真谷地尋常小学校の教員となる
- 1920年(大正9年)1月
- 上京し、牧口常三郎(のちの創価学会初代会長)と出会う
- 1925年(大正14年)4月
- 中央大学予科に入学。3年後、同大学本科経済学部に入学
- 1930年(昭和5年)6月
- 戸田が経営する私塾「時習学館」の教材をまとめた『推理式指導算術』を発刊。
- その後、百万部を超えるロングセラーとなる
- 1951年(昭和26年)5月3日
- 創価学会第2代会長に就任
- 1957年(昭和32年)9月8日
- 「原水爆禁止宣言」を発表
- 1958年(昭和33年)4月2日
- 58歳で生涯を閉じる
- 1977年(昭和52年)10月2日
- 厚田に戸田記念墓地公園が開園
- 1999年(平成11年)12月1日
- 「厚田村栄誉村民」の称号が贈られる
子母澤寛の生涯
厚田出身の時代小説家
子母澤寛は、1892年2月1日、北海道厚田郡厚田村大字厚田村16番地(現石狩市厚田区)に生まれた時代小説家。本名は梅谷松太郎。姓は「うめや」だったが、成人後に「うめたに」と改めた。両親とは縁が薄く祖父・十次郎(通称 斎藤鉄五郎、または鉄太郎)と祖母・スナの手で育てられた。
厚田尋常高等小学校高等科を優秀な成績で卒業後、北海道庁立函館商業学校に進むが、函館大火で寄宿先が焼失。やむなく私立小樽商業学校(現北照高等学校)へ転校し、さらに私立北海中学校(現北海高等学校)に移り、同校を卒業した。
大卒後、転職を重ね新聞記者に
上京して明治大学法学部に入学。学生時代は学費や生活費を稼ぐために赤本(娯楽読み物)の原稿書きや、横須賀の地方紙で編集の仕事をした。
大学卒業後、釧路の地方紙や札幌の木材会社で働き、その後、東京に出て銀座の会社に勤めたが、会社が倒産し、一時、生活が困窮状態に。1918年、読売新聞社(1874年創刊) に入社する機会を得て、人生の新たな転機を迎える。26歳だった。
「新選組」再評価への道筋をつける
1925年に社会部記者として「国定忠治七十五年祭」を取材したことが、後年、子母澤文学の一つの柱となる「俠客・股旅もの」を執筆するきっかけに。この時、国定忠治を直接知る人物に取材し、巷間に伝わる俗説と実際の出来事との間に「乖離(かいり)」があることに気づき、ジャーナリストとして事実の検証を心掛けた。のちに「新選組」を知る生き証人を丹念に訪ね歩き、そうした証言をもとに新選組3部作(実際は4部作)を世に出したことも、同じ問題意識から発したものである。こうした新選組の取材が、子母澤文学のもう一つの柱となる「幕末・維新もの」を執筆する原点となり、子母澤寛こそが「新選組」再評価への道筋をつけた最大の功労者ということができる。そして、事実を入念に調べ上げて書くという姿勢は終生一貫していた。
筆名「子母澤寛」の由来
1926年に東京日日新聞社(1872年創刊、現毎日新聞社)へ移り、社会部の遊軍記者となる。当時、囲み記事と呼ばれた連載を担当し、なかでも「味覚極楽」や「戊辰物語」の企画が好評を博し、それぞれ掲載終了後に同社社会部編として本にまとめられた。こうした出版とほぼ同時期に、個人的に『新選組始末記』を出版するが、その頃に居住していた「東京市大森区新井宿 子母沢」(現東京都大田区中央4丁目)の 地名から「子母沢」をとり、筆名を「子母澤寛」とした。
41歳で作家として独立
1931年、子どもが病気で入院し、その治療費を捻出するため、上司の社会部長に相談して『サンデー毎日』に小説「紋三郎の秀」を発表。この作品や翌年発表した「弥太郎笠」などが映画化され、話題を呼んだ。以降、子母澤寛原作の股旅ものが相次いで映画作品となり、劇場でも上演された。
子母澤寛と戸田城聖との縁
1940年1月、『週刊朝日』新年特別号で発表した「大道」のほか、6編の作品を収めた『大道』が同年5月に発刊された。この「大道」という作品に惚れ込み、出版社を大道書房と名付けたのは、経営者の戸田城外(城聖)であった。戸田は子母澤より8歳年下で戸田の兄・外吉が子母澤と親友だったことから、厚田村でともに遊んだ仲だった。戸田は、大道書房から子母澤の代表作『勝安房守(勝海舟)』(第1巻~第5巻)をはじめ、25冊の著作を刊行。戦後も日正書房から10冊の著作を発行している。
大の動物好き
子母澤は大の動物好きとして知られ、なかでも猿は3回にわたり飼って可愛がった。生き物に注ぐ作者の深い愛情がエッセイに綴られ、そうしたエッセイを収録した『愛猿記(あいえんき)』は傑作の呼び名も高い。大らかでちょっぴり悪戯好きな作者の人柄が伝わってくる。他に「二丁目の角の物語」「曲りかど人生」などの自伝的エッセイも。1936年に発表した「雪解けの道」は、少年時代に函館の学校に進学するために祖父に連れられて厚田村から旅立つ場面が感動的に描かれている。
なお、作者が後半生に発表した作品の中に、祖父・梅谷十次郎(斎藤鉄太郎)が登場する「蝦夷物語」「南へ向いた丘」「厚田日記」の3部作がある。
子母澤の原作が映画・テレビで大ヒット
子母澤が1961年に発刊した『ふところ手帖』に一編の短編小説が収録されていた。この短い作品に注目し、映画化に情熱を注いだのが勝新太郎だった。タイトルは「座頭市物語」。この映画は大ヒットを記録し、その後も勝主演の座頭市映画が計24本つくられ、テレビ番組も100本を数えた。近年においても、北野武、綾瀬はるか、香取慎吾の各氏が主演した座頭市映画が相次いでつくられた。子母澤原作の「座頭市物語」は、今なお、古くないのである。
第10回菊池寛賞を受賞
1962年2月、子母澤寛の『逃げ水』『父子鷹』『おとこ鷹』など幕末維新を背景とする一連の作品に対して第10回菊池寛賞が贈られた。
同年、作者自選による『子母澤寛全集』(全10巻)が中央公論社から刊行された。
1968年7月19日、子母澤寛は、心筋梗塞により鵠沼(くげぬま)の自宅で亡くなる。76歳であった。5年後、講談社から『子母澤寛全集』(全25巻)が刊行された。
1974年11月3日、7回忌にあたり厚田村に「子母澤寛文学碑」が建立された。1999年には、創価学会第2代会長の戸田城聖、第43代横綱吉葉山・池田潤之輔、大網元で北海道会議員の佐藤松太郎とともに、「厚田村栄誉村民」の称号が贈られた。
さらに2016年2月11日、「厚田ふるさと平和・文学賞」が創設され、戸田城聖の平和への貢献を顕彰する「戸田城聖平和賞」とともに、子母澤寛の文学への貢献を顕彰し、新たな文学の創出を目指して「子母澤寛文学賞」(短編小説部門)と「愛猿記賞」(エッセイ部門)が設立された。
主要著作一覧
- 『新選組始末記』
- 1928年
- 36歳
- 『新選組遺聞』
- 1929年
- 37歳
- 『笹川の繁蔵』
- 1930年
- 38歳
- (装幀は異父弟の洋画家・三岸好太郎)
- 『新選組物語』
- 1932年
- 40歳
- 『国定忠治』
- 1933年
- 41歳
- 『新選組』
- 1935年
- 43歳
- 『突っかけ侍』
- 1937年
- 45歳
- 『勝安房守』
- 1942年
- 50歳
- (のちに『勝海舟』に改題)
- 『御存知お役者小僧』
- 1952年
- 60歳
- 『すっ飛び駕』
- 〃
- 〃
- 『お坊主天狗』
- 1954年
- 62歳
- 『愛猿記』
- 1956年
- 64歳
- 『父子鷹』
- 〃
- 〃
- 『剣客物語』
- 1957年
- 65歳
- 『からす組』
- 1958年
- 66歳
- 『蝦夷物語』
- 1960年
- 68歳
- 『遺臣伝』
- 〃
- 〃
- 『逃げ水』
- 〃
- 〃
- 『おとこ鷹』
- 1961年
- 69歳
- 『脇役』
- 1962年
- 70歳
- 『駿河游俠伝』
- 1963年
- 71歳
- 『狼と鷹』
- 1967年
- 75歳
- 『行きゆきて峠あり』
- 〃
- 〃
※本編作成にあたり、子母澤寛先生のご親族から当実行委員会に提供していただいた貴重な写真を使わせていただきました。
三岸好太郎の生涯
日本近代洋画壇に異彩を放った天才画家
「桜の花のようにパッと咲いてパッと散る」(三岸節子著『花より花らしく』)がいつもの口癖で31歳の若さで急逝した三岸好太郎――。
日本の洋画壇が本格的な発展期に入ろうとしていた大正期から昭和初期にかけて、岸田劉生、梅原龍三郎、須田国太郎など、若き逸材が綺羅星のごとく躍り出た中にあって、ひときわ輝く異彩を放った天才画家が三岸好太郎であった。
兄・子母澤寛
三岸好太郎は、1903年4月18日、北海道札幌区(現札幌市)南7条4丁目に生まれた。父は橘巌松、母は三岸イシ。作家の子母澤寛(本名 梅谷松太郎)が好太郎の異父兄にあたることは、あまり知られていない。
後年、好太郎が自筆の年譜に「北海道石狩ルーラン一六番地に生る」と記したことから、彼の故郷を「石狩」や「厚田」と誤る原因となった。しかし、本籍地は紛れもなく「北海道厚田郡厚田村大字厚田村十六番地」としていたことから、彼が「厚田村」や「ルーラン」への憧憬を抱いていたことは間違いないのではないか。
札幌っ子の好太郎
好太郎は、札幌生まれの札幌育ち。故郷の北海道、なかでも札幌をこよなく愛した札幌っ子であった。当初、西創成尋常高等小学校に入学し、豊水尋常高等小学校へ転じ、さらに北九条尋常高等小学校へと移り、卒業した。
小学生の時の遊び場は、もっぱら近所の北海道大学(当時、東北帝国大学農科大学)の構内だったという。その頃、芝生にイーゼル(画架)を立てじっくりと腰を下ろし、絵筆を手にキャンバス(画布)に向かっていた人物がいた。のちに作家となる有島武郎である。彼は札幌農学校卒業後、ハーバード大学などに学び、1907年から1914年にかけて母校で英語を教えた。
子どもの時から絵が好きだった有島は、時間をみつけては北大周辺で絵を描いた。初めは水彩画を描き、1913年頃から油絵をさかんに描いていたという。この油絵を描き始めた時期は、三岸好太郎がちょうど小学校上級生の頃である。
評伝には、「三岸は北大の教師であった有島武郎がイーゼルを立てて写生しているのをよく見かけたそうで、水彩絵具しか知らなかった彼等は有島が油絵具を使っているのを羨望とあこがれの目で眺めた」(匠秀夫著『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』)とある。
人一倍好奇心が強い好太郎のことである。ただ油絵を遠くから眺めていたのではなく、「油絵」と初めて出会った“衝撃”を心に刻印したのであろう。
画家を目指して上京
1921年3月、三岸は札幌第一中学校(現札幌南高等学校)卒業と同時に画家を目指して上京した。昼はさまざまな職業を転々としながら、夜は黙々と画業に打ち込む日々を過ごした。窮乏生活に堪えながら血のにじむような努力が、やがて実を結ぶようになる。
1922年6月の第3回「中央美術社展」で〈静物〉が入選したのをはじめ、翌1923年5月の「春陽会」第1回展では、〈檸檬持てる少女〉が入選を果たした。とりわけ〈檸檬持てる少女〉は、2466点の応募作品から厳選された50点に入った作品で、アンリ・ルソーから影響を受けた初期の作品の一つである。
続く1924年3月の「春陽会」第2回展では、〈兄及ビ彼ノ長女〉〈春ノ野辺〉〈友人ノ肖像〉〈崖ノ風景〉の4点が入選し、「春陽会賞」を首席で受賞。一躍注目を浴びた。
ちなみに〈兄及ビ彼ノ長女〉のモデルになったのは、子母澤寛(本名 梅谷松太郎)とその長女である。
変遷した作風
以後、三岸の本格的な画家人生が始まったが、この先10年間で彼の作風は、著しく変化したため、批判も受けた。
本稿では、北海道立三岸好太郎美術館編纂による『生誕100年記念三岸好太郎展』図録(2003年)の解説に基づき、彼の足跡を整理してみよう。
【Ⅰ 初期の作品】(1921-1928)
上京後は、さまざまな職につきながら独学で絵の制作に励み、1923年の「春陽会」第1回展で入選。翌年には春陽会賞を首席で受賞。この頃の作品は、岸田劉生やアンリ・ルソーの作風を巧みに取り入れ、ほのぼのとした味わいを漂わせたものが多い。1926年には、創作の活路を見出そうとし、上海、蘇州、杭州などの中国を旅行した。
【Ⅱ 道化の時代】(1928-1932)
1929年の「春陽会」第7回展に「道化」を題材とする作品〈面の男〉〈少年道化〉を発表。1930年の「春陽会」第8回展では<マリオネット><黄服少女>を発表した。一連の作品は、「二科会」の画家たちの注目するところとなり、彼らに誘われて1930年、「独立美術協会」の結成に名を連ねた。ほかにも、故郷札幌の風景や多くの女性像が残されているが、いずれも深い情感を湛えたものである。
【Ⅲ さまざまな実験】(1932-1933)
抒情に傾きがちであった「道化シリーズ」から、より造形性を重視した制作へと路線転換を図り、さまざまな造形的実験が繰り広げられた。「ひっかき技法」はその一つ。〈オーケストラ〉では、絵の具が乾く前に尖った道具で画面をひっかくというこの手法のスピード感が生かされている。また、幾何学的な抽象やコラージュ作品にも取り組んだ。
【Ⅳ 蝶と貝殻】(1934)
1934年3月の「独立美術協会」第4回展に〈飛ぶ蝶〉〈海と射光〉など蝶や貝殻を題材にした作品を発表。白昼夢のような幻想的官能的な世界が展開されている。また自作の詩「蝶ト貝殻(視覚詩)」を美術雑誌に発表するなど意欲的に活動を展開。モダンな新アトリエの建設にも着手し、さまざまなアイデアを出し、夢をふくらませた。しかし、完成を見ることなく、同年7月1日、旅先で急逝。新アトリエは、節子夫人の手で完成された。
三岸アトリエ
三岸好太郎がデザインし、節子夫人の手で完成された新アトリエ――。もともと三岸と親交があり、「バウハウス」(1919年、建築家グロピウスがドイツ・ヴァイマールに創立した造形教育機関。1933年ナチスにより一時解散させられた)に学び帰国した山脇巌に新アトリエの設計を依頼した。三岸自らデザイン画を何枚も描き、旅行から帰るたびに「バウハウス」の考え方では思いつかない、ユニークな発想を山脇に提示。三岸の夢は新アトリエへと注がれた。
太平洋戦争中の空襲で被害を受けたが、ほぼ原型をとどめ、現在、東京都中野区内に、登録有形文化財「三岸アトリエ」として保存。その斬新な設計は、今でも見る人を驚かせている。
北海道立三岸好太郎美術館が完成
1967年9月、節子夫人ら遺族4人により三岸好太郎の遺作220点が北海道に寄贈され、北海道立美術館(三岸好太郎記念室)が開設。
1977年6月、北海道立美術館が北海道立三岸好太郎美術館と改称され、さらに1983年7月、北海道立三岸好太郎美術館が現在の場所(札幌市中央区北2条西15丁目)に新築移転し、オープンした。同美術館を見学することにより、三岸が上京後のわずか14年間に残した偉大な画業の足跡を知ることができる。
※文中、故人の敬称を省略しました。
- 〈主な参考文献〉
- 北海道立三岸好太郎美術館編『生誕100年記念三岸好太郎展』図録(2003年)
- 三岸好太郎著『感情と表現』(1983年)
- 三岸節子著『花より花らしく』(1977年)
- 匠秀夫著『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(1968年)
- 〈監修・写真提供〉
- 三岸太郎氏 高輪画廊 三岸アトリエ mima北海道立三岸好太郎美術館
※本編作成にあたり、「旧厚田資料室・戸田城聖コーナー」並びに「戸田生家・展示コーナー」を参照させていただきました。
<主な参考文献>「創価教育の源流」編纂委員会編『評伝 戸田城聖(上)』(2019年)